★☆★〜ボクとアタチのあしあと〜★☆★

大切な2チワワンと母のあしあとまったりと

昭和54年5月入院28日目最後の瞬間

昭和54年5月24日(木曜日)入院28日目 
前日から吐き続け、母の体は既に癌で占領され母が戦う余地を残さないほど体力も奪っていました。
0:20  「体が動かない」と言い、頭からみんな苦しいともがく
0:50  少し吐く
1:30  「頑張んない」と言うと「もう頑張られんわ・・・」と気弱なことを言う
1:35  血圧測定
3:26  永眠する    昭和12年2月28日生まれ 享年42歳

1時35分からは日誌も途切れていた。その詳細はそこにいたおば達が語ってくれた。
「頑張られんわ・・・」私の生まれ育った地方の言葉で、母の最期の言葉となった。
そう言い母の意識は遠のき、けいれんが起こりその目は二度と開くことはなかった。
私達子供達は叔父の迎えにより再び、あの日のように真夜中に母の病院へと向かうことになった。
眠い目をこすり、ただ、そのときには、きっとまたは母は助かる。と思っていたせいか
赤信号で何度も止まる時間もそう長くは感じなかった。
病院に着いた私達を待っていたのは、玄関に立つ父の姿だった。
私達子供3人。叔父に向かい「駄目だったわ・・」そうつぶやいた。
父の後ろにつき、通いなれた母の病室に向かう間、その言葉の意味を私は「死」と結びつけることは
できなかった。信じられなかった。母が死んだ。
病室に着くと、あの夜初めてけいれんを起こしたあの日の夜と同じ、廊下には酸素の水がボコボコ
と泡立てる音だけが響いていた。そのほかの音は何も聞こえない。
病室に入ると横たわった、もう息をしていない母の姿。泣きじゃくる母の兄妹。
私も母の死を、ようやく理解し涙があふれてきた。
母ともう話すことができない。母のまだ暖かい手に触れた。まだぬくもりを感じることができた。
しかし、母は痛み苦しんだ毎日から解放された。父の駄目だった・・・。の言葉には父の生きて欲しいという願いも叶わなかった悔しさがにじんでいた。これで母は楽になれた。
そして、母は私達と一緒に28日ぶりに我が家へと帰ってきた。
ただ、28日前と違うのは母は笑顔もない、おしゃべりもできない息絶えた静かな帰宅だった。