昭和54年5月14日 (火曜日)入院19日目 曇り
0:45 第一回目の発作(けいれん)
けいれんの後大きなイビキと泡を吹き出した。吸引器で口と鼻から吸い取り
酸素を開始する。親戚一同家族が集まる。
3:25 意識回復しつつあり
3:50 意識回復し話をする
5:30 採血
6:55 尿の検査 管で取る
8:00 メロン汁2口飲む。下腹が痛むようだ
10:00 「小水がしたい」と言って起きて便器を当てたが何も出ない
10:05 スイカの汁水のみにて少々飲む
10:25 止血剤の注射を点滴に入れる
10:30 検温 37.3℃
11:55 タイの吸い物スプーンで6杯ほど飲む
14:00 検温 37.4℃
14:20 足の裏を少し揉む
14:55 メロンの汁水のみで5口飲む
16:30 小水を管で取ってもらう
16:45 少し吐く 点滴取替え1本目
17:30 重湯スプーン5靴飲む
17:35 タイの吸い物飲む
17:45 大きく吐く苦しそう
18:10 少し吐く
18:30 桃の缶詰の汁水のみで少し飲む。桃も少し小さくして食べるがすぐに吐く
19:05 少しだけ吐く 点滴の針差し替えてもらう
19:15 点滴取替え2本目
20:20 イビキをかいて眠る (実の妹2人泊まり)
22:15 点滴取替え3本目
日にちが変ったこの日の真夜中、今まで体調が良かった数日が全て帳消しになってしまうほどの急変だった。
おそらくこの急変の前触れの穏やかなわずかな時間だったのだろう。
この日から夜の泊まりも2人ずつとなった。
実の妹(私のおば)のメッセージで「3人の子供たちの祈りが神に通じたのだろうか
本当に嬉しい」と書かれている。
真夜中に呼び出された私たちは、叔父の迎えに来た車に乗り、寝ぼけ眼で病院に向かった。
兄の寝ぼけ方はかなりのもので、起こされて別の部屋へ行きまたそこで眠ろうとした
エピソードが残されている。
病院に着いた私たちを迎えたのは当時は酸素が廊下から供給されており、ボコボコと
泡を吹き出した水の脇のチューブから酸素を吸っている、青ざめた母の姿だった。
まったく意識がなく、このまま目が覚めないのではないだろうかと母が目覚めるまで
傍で見守った。母の意識が戻り「みんなどうしたんだ?」と何もなかったように話し始めた
時には、嬉しくて涙が出る思いであった。
そして、この日を境に病状は、本当に緩やかであったが命の炎を消すように悪化していった。