★☆★〜ボクとアタチのあしあと〜★☆★

大切な2チワワンと母のあしあとまったりと

介護が終わる前の日

12月に入ると父は徐々に食事を残すようになり血圧の低下や体温の上昇があった。

病院に行く?

11月も熱が出るたびに、何度か聞いたり「どこかつらいところない?」と聞いても「なんともない」を繰り返す父。

やっぱり病院には行きたくないと。

以前から、そして今回も死ぬなら家で死にたい。最後を過ごしたい。

と言っていた父。

延命処置も臨まないことも話していた。

でも、私は不安だった。施設に戻る2日前に高熱が出始めた。

戻る2日前のある朝。

いつも通り朝食を作り食べ始めるとほとんど食べない。

「お父さん!食べ終わるまで片付けんからね!」と強めに言ってしまった私。

その場を離れてしばらく様子を見ていたけど、しばらくした後、また、スプーンを持って食べ始めた。その姿を見て。自分の言った言葉と態度をとても反省して後悔した。

お昼はごめんね。食べさせてあげるねをと言い私が食べさせた。

今でもあの時の事をこの1ヶ月の中での後悔になっている。あの再び食べ始めた父の姿が目と脳裏に焼き付いて離れない。

おそらく、この先も忘れないと思う。私が父にしてしまった、たった一度の嫌な態度。

12月5日に施設に戻る予定にしていたので、前日は帰って来た日と同じ、お刺身。

自分で食べ始めたど辛そうだったので私が介助。

お粥が苦しそうでなかなか進まない中にも「刺し身もっと入れろや」と、お刺身は全て完食。

そしてその後、帰ることはもともと伝えていたけど「お父さん。明日施設に帰るよ」そう言うと父は「どこへ行く?」

私「もといた施設だよ」

父「行かんでええ」

私「帰りたくないかねぇ。そうだよねぇ。でもさ、私仕事はまだ辞められんのだわ。もうちょっと施設で頑張ってくれる?」

父「わかった」

父はなんでも、理解してくれると「わかった」と必ず答えてくれる。

答えに迷うときは「考えとく」

それが父の返答の仕方。

多くは絶対に語らない。漢義のあるひと。

そこからは、「メガネをかけてくれ」「時計持っていく」目を開いて多弁にそして、起きていた。その中でも苦しいのかベッドを起こしたり寝かせたりを繰り返し。

毎晩私は2階の部屋で寝ていたけど、その夜はそばで寝ると決めていた。床に布団を敷き、ソラちゃんと皆で寝た。

しかし、父は苦しそうに痰を何度も吐いたり、咳をしたり、体をさすったりして私も父も全く眠れずに朝を迎えた。

朝ごはんも食べたものの、このまま施設に戻るわけにはいかないな。と思った私。

「お父さん、苦しいよね。このまま施設には戻れんし、病院へ行く?病院に行ったら入院になると思うけんどうする?」父は病院を選択した。

 

病院に連絡。開院とともに病院に行くことに。

救急車は、嫌だといい寝台車で家を出た。

必ず帽子をかぶる父に何被っていく?

選んだのはこの夏に私が贈ったハンチング。

何着ていく?にもしっかりと答え指示した父。

そしてこれが長年暮らした、父が建てた家。最後の景色となった。

 

狭いストレッチャーの上で5時間ほど待たされながらようやく入院。

その間も背中をもんでほしいや辛そうながらも興奮しているのか、夜も寝ていないのに全く目も閉じない。ようやく入院病棟へ上がるとき「1月には会いに来るからね。頑張っててね」それが最後の会話になった。

 

父の事を伝え。書類にサインをし私は実家に戻った。

翌日には東京に戻る予定にしていたため、父の使用していたものを回収と片付け、荷造り。

入院した病院へも心配し親友が駆けつけてくれた。そして、東京に戻る時も。

後ろ髪を引かれつつ東京に戻るしかない私は翌日12月6日夕方に帰京した。

1ヶ月ぶりに。

やはり、東京の家は良い大好きな家だから戻ってきたと、実家から送った荷物も全て届き、荷解きしてその夜は早々と寝た。

翌朝すでに起きていたがまだベッドにいた私に6時携帯電話が鳴る。

登録してある「○○病院」すぐに出たけど電話は切れて折り返した。

朝に電話が入るのは絶対にいい電話ではない。 それは医療者というのもあるけど、母が亡くなったときも夜中の電話だった。

本当にいい事はない。