★☆★〜ボクとアタチのあしあと〜★☆★

大切な2チワワンと母のあしあとまったりと

49日と納骨

遺骨がそばにある間は、話しかけたりそばにいたりできた。

 

納骨をいつにするかは割と大きな問題で。

私の叔母は1周忌までそばにおいておきたい。

遺骨がそばからなくなる寂しさを、私の母でものすごく感じたらしい。

私の母が亡くなったとき、叔母は本当に良くしてくれた私の母が亡くなったことも悲しかったけど、遺骨が納骨された寂しさは言葉では言い表せなかったらしい。

 

私もそうだと思った。亡骸が火葬されるときも気が狂うかと思うくらい悲しかった。

まだ遺骨があれば。

 

そうなのだけど、我が家事情で遺骨にお水もご飯もお花もあげられない。

私が実家にいないからできない。それをできる人がいない。

それだったら、毎日でもお花やお水あげてくれる場所に入れてあげた方がいい。

悲しかったけどそれしかないと思った。 それに、私の東京のここの家には父の遺骨がある。

毎日お線香もお水もあげられる。花も絶やすことはない。

 

そんな納骨。

思う以上に悲しかった。 最後の日は父の遺骨をそばに置いて寝た。


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納骨の瞬間は父の遺骨を抱きしめて涙が止まらなくてしばらく抱きしめたままでいた。

綱を手から離す瞬間は声が出るほど嗚咽した。

 

毎日天気が悪くて、前日は大雪になっていた。

でも、納骨の日は嘘みたいに青空で足元の凍った雪も溶けていた。


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そして、父を送り出す最後のご飯

お漬物以外は全て手作りにした。


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こちらは最終的な霊供膳

 

迷ったのがこちら

大好きなかぼちゃのいとこ煮

でも、煮物2つはおかしい。ということになり和物悩んだ結果。

上のものにした。かなりキレイにできた。


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おもちゃのような小ささ

 


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胡椒の瓶よりも小さい霊供膳のお膳

絶対に手作りにしたかった。

 

まだ本当に夢を見ているような気がする。

不思議な感覚。

もう二度と会えない、もう二度と触れることはできない。それだけは事実。

やっぱり悲しくて、つらい。

そして、床の間の段払いもしたのだけどそれも悲しかった。

大きな仏壇のお掃除をして父のお位牌を入れてお仏壇を整えた。

これは段払い前の床の間
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突然の永遠の別れ

本当に来月には面会の予定を立てていた。

肺炎が良くなればまた施設で暮らせると思っていた。

そんな思いを打ち消すように折り返した電話口の看護師も慌てていて。

「今急に心臓の動きが弱くなって」

後ろでモニターのアラーム音がけたたましく鳴っている。聞き慣れた音だ。

悟った。ダメかもしれない。

とにかく今から行きます。

と伝え、兄、叔母に電話。ひとまず病院に行ってほしい事。

私は最短で何時の新幹線に乗れるかを調べ2時間後でしかない。

スタッフに連絡を入れ、一番大きなスーツケースに荷物を詰め込んだ。

最悪の事を想定して準備していたものを全て詰め込んだ。

ソラを抱え何度も振り落とし、家の鍵がついたキーケースごと失くしてしまう慌てぶりだった。

親友が時間休を、取ってくれ迎えに来てくれていたその足で病院へ。

病室に入るとすでに父は白い布をかけられていた。私は大声で泣いた。私のせいだ。

7時15分

医師からの話でも30分前にはナースコールもあって急変だったと。

私はその話を聞きながらも

私が介護のために引き取らなければそのままでいられたかもしれない。

自分を責めるしかなかった。

ごめんね。ごめんね。と謝るしかなかった。

頭は真っ白だけど、私しかこの後のことをやれる人はいない。

そこからはすべての手配、やり取り全てを担った。悲しむ時間を与えられなかった。

父の亡骸を家につれて帰りたくて昼過ぎには実家に戻った。

ソラちゃんは親友が部屋にあげていてくれたので先に待っていた。

じいじと会わせてあげると涙が止まらなくなった。

そこから不思議とソラちゃんは、じいじが寝ている座敷の部屋に入りたがり、座布団に寝そべり、じいじを眺めていることもあった。

その姿がまた辛かった。

大きな仏壇の前に父は横たわり穏やかな顔で眠っていた。

寂しくないように写真たくさん飾り普段使っていたものも並べ。

しかし、私は頭がパニックになりそうながらも、1ヶ月ほど前に叔父の葬儀を少しだけサポートしたのでその記憶を活かしながら担当者さんと対応。電話が途切れる事なく鳴り。

立派な形で送ってあげたいと選ぶものも躊躇しなかった。斎場の1番大きな部屋を取り祭壇にはたくさんのお花、親戚一同からの花籠も私の職場からの供花も立派なものが並べられた。有難かった。

立派なお着物を着せてもらった父。

何度も頬をすり寄せて最後の別れは本当に辛かった。

片時も離れたくないとずっとそばで泣いてた。



 

 

 

介護が終わる前の日

12月に入ると父は徐々に食事を残すようになり血圧の低下や体温の上昇があった。

病院に行く?

11月も熱が出るたびに、何度か聞いたり「どこかつらいところない?」と聞いても「なんともない」を繰り返す父。

やっぱり病院には行きたくないと。

以前から、そして今回も死ぬなら家で死にたい。最後を過ごしたい。

と言っていた父。

延命処置も臨まないことも話していた。

でも、私は不安だった。施設に戻る2日前に高熱が出始めた。

戻る2日前のある朝。

いつも通り朝食を作り食べ始めるとほとんど食べない。

「お父さん!食べ終わるまで片付けんからね!」と強めに言ってしまった私。

その場を離れてしばらく様子を見ていたけど、しばらくした後、また、スプーンを持って食べ始めた。その姿を見て。自分の言った言葉と態度をとても反省して後悔した。

お昼はごめんね。食べさせてあげるねをと言い私が食べさせた。

今でもあの時の事をこの1ヶ月の中での後悔になっている。あの再び食べ始めた父の姿が目と脳裏に焼き付いて離れない。

おそらく、この先も忘れないと思う。私が父にしてしまった、たった一度の嫌な態度。

12月5日に施設に戻る予定にしていたので、前日は帰って来た日と同じ、お刺身。

自分で食べ始めたど辛そうだったので私が介助。

お粥が苦しそうでなかなか進まない中にも「刺し身もっと入れろや」と、お刺身は全て完食。

そしてその後、帰ることはもともと伝えていたけど「お父さん。明日施設に帰るよ」そう言うと父は「どこへ行く?」

私「もといた施設だよ」

父「行かんでええ」

私「帰りたくないかねぇ。そうだよねぇ。でもさ、私仕事はまだ辞められんのだわ。もうちょっと施設で頑張ってくれる?」

父「わかった」

父はなんでも、理解してくれると「わかった」と必ず答えてくれる。

答えに迷うときは「考えとく」

それが父の返答の仕方。

多くは絶対に語らない。漢義のあるひと。

そこからは、「メガネをかけてくれ」「時計持っていく」目を開いて多弁にそして、起きていた。その中でも苦しいのかベッドを起こしたり寝かせたりを繰り返し。

毎晩私は2階の部屋で寝ていたけど、その夜はそばで寝ると決めていた。床に布団を敷き、ソラちゃんと皆で寝た。

しかし、父は苦しそうに痰を何度も吐いたり、咳をしたり、体をさすったりして私も父も全く眠れずに朝を迎えた。

朝ごはんも食べたものの、このまま施設に戻るわけにはいかないな。と思った私。

「お父さん、苦しいよね。このまま施設には戻れんし、病院へ行く?病院に行ったら入院になると思うけんどうする?」父は病院を選択した。

 

病院に連絡。開院とともに病院に行くことに。

救急車は、嫌だといい寝台車で家を出た。

必ず帽子をかぶる父に何被っていく?

選んだのはこの夏に私が贈ったハンチング。

何着ていく?にもしっかりと答え指示した父。

そしてこれが長年暮らした、父が建てた家。最後の景色となった。

 

狭いストレッチャーの上で5時間ほど待たされながらようやく入院。

その間も背中をもんでほしいや辛そうながらも興奮しているのか、夜も寝ていないのに全く目も閉じない。ようやく入院病棟へ上がるとき「1月には会いに来るからね。頑張っててね」それが最後の会話になった。

 

父の事を伝え。書類にサインをし私は実家に戻った。

翌日には東京に戻る予定にしていたため、父の使用していたものを回収と片付け、荷造り。

入院した病院へも心配し親友が駆けつけてくれた。そして、東京に戻る時も。

後ろ髪を引かれつつ東京に戻るしかない私は翌日12月6日夕方に帰京した。

1ヶ月ぶりに。

やはり、東京の家は良い大好きな家だから戻ってきたと、実家から送った荷物も全て届き、荷解きしてその夜は早々と寝た。

翌朝すでに起きていたがまだベッドにいた私に6時携帯電話が鳴る。

登録してある「○○病院」すぐに出たけど電話は切れて折り返した。

朝に電話が入るのは絶対にいい電話ではない。 それは医療者というのもあるけど、母が亡くなったときも夜中の電話だった。

本当にいい事はない。

 

 

介護の毎日 ②

早朝のゴミ出しは本当に気持ちよかった。

朝焼けもあった。


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夜の星空は最高


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終わりの方は雪景色に変わっていったけど

 


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そんな私の故郷が本当に大好きでたまらない。

寒さは厳しいけど慣れてしまえば気にならなくなる。

ファンヒーターさえあれば。

 

ソラのことを何よりも可愛がってくれた父。

「じいじ、おはよー」

必ず朝一番に挨拶に行き、「ソラー」と呼ぶ声

「じいじ頑張れって、ソラが言ってるよ」と言うと涙を流す父。

おやつをあげる父


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この時間が持てたことは本当に良かったのかもしれない。

生き物や、植物が大好きな父。犬がいなかったことはない。

柴犬、雑種。いつもいた。

鳥も沢山飼っていた。最後まで可愛がっていたオカメインコ。錦鯉は家に池を作るほど(幼い頃はその池で泳いでいた私)さつきの鉢で、庭があふれるほど。とにかく多趣味。

そんな父に私は似ているのかもしれない。

いや、ソックリらしい。

昔、父の足の爪を見たときにこの指と爪どこかで見たことある。と、思ったら、自分の足とそっくりだった事には笑えた。今でも自分の足を見ると父の足が浮かぶ。

4日の日に爪が伸びていたので爪を切り。

でも右しか切ってなくて後で、左忘れた💦ってなったのよね。

そして最後に見た足の形も爪も私と同じだった。

 

 



 

 

 

介護の1ヶ月①

毎日があっという間だった。

毎朝6時には起きてゴミを出し、朝食作りからスタート。

父の食事は時々お惣菜も入れたが、ほぼ毎食手作りでお粥と4から5品の副食。

ほんの一部の食事です。

まだ写真はいっぱいある。


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すべてを刻みで準備して、お粥もお米から作る事に徹底した。

とにかく父に美味しいもの、好きなものを食べさせたかった。

ラーメン、焼きそば、牛丼、お刺身、ナポリタン何でも食べさせた。

父が好きだったもの全て。

これはナポリタンを食してる父。

 


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こぼすことすら愛しかった。

このキャッチできるエプロンが秀逸だった。

でも、父はこぼしたものもちゃんと、スプーンで拾い上げて口に戻そうとしていた。

残すことができない時代に育った父を素晴らしいと思う。

 

糖尿病も腎臓病も心不全もわかっていたけど。一度取り寄せたおかずを出したら全く手を付けず。噛みごたえのないものは気に入らなかったらしい。

それ以来その取り寄せ食は未だに実家の冷凍庫に眠っている。

父は、なかなかスプーンを置かないときはまだ足りないんだろうな。という予測がつき、父に「足りない?」って聞くと、必ず「あれば食べる」と答える。

そう言われるとお粥やおかずを少し足して食べるくらい食欲はあった。

朝のヨーグルト昼のバナナ1本も必ずつけて、おやつの時間には大好きな甘味物。

美味しそうに食べる父を見ているのは嬉しかった。

 

ご飯の前に必ず血圧体温呼吸の酸素度をチェック。おむつを変えてご飯。

朝ごはんが終わると片付けて、歯磨きとひげそり。ひげ剃りは父の大切な朝の行事。

幼い頃から仕事に行く前に洗面所で必ず髭を剃り、小さい頃はジョリジョリした頬を子供たちにすり寄せて、嫌がられるのを喜んでいた父。

皮膚が弱いのでジェルつけないと剃れないのもあって時間はかかる。

でも、温かいタオルで終わったあとに顔を拭き取るとサッパリした父の顔が戻ってくる。

 

午前中に着替えや手足を拭いたり。マッサージ。手足の運動。

そしてまた昼ごはんの準備。

昼が終われば着替えや傷の手当。

夕食準備や、買い物。

本当にあっという間に1日が終わり、私は22時過ぎには落ちるように眠りについていた。

必ず1時30分から2時には起きてオムツを替えに起きていく。

その時間が大変なようで。今でも目が覚めるくらい不思議と楽しかった。

父は眠れないのか、しっかり起きていることも多く、夢を見ていた話や痛いところの話などしながら。体の向きを変えて全身のマッサージと寝衣のシワ伸ばし。

父は「もうええ」って嫌がる中に、私の思いを貫き通してしまった。職業としてのプライドが先立ってしまうという。「シワがあると嫌なんよ私」と。

 

そして。叶えたかった家の片付けや、叔父の急逝で父の遺影をちゃんとしたいという思いで整理をしつつそれも考えて決めていた。

 

今となってはその片付けや、遺影を選んだことが、私自身を責めている。

そんな事をしたからだとも。

 

 

棒のように体に力が入りなかなか身体の向きを変えたりオムツ交換ができないため、

「お父さん!力抜いて!力入れると重くなるんだよ。だから、タコさんみたいにフニャフニャ力抜いて」と、父の前でタコ踊りをしてみせたり。

オムツ交換中につい出てしまったものを「くさいねかぁーでも、出るもんはどんどん出していいんよ」って笑いながらいうと、父は片手でゴメンゴメンって合図。

 

ヘッドの高さの微調整が難しく上げたり下げたりをすると、いい場所になると、👌手で丸を作ってオッケーサイン。

近くに兄(兄も車椅子生活)がいても、必ず私を呼びだし、頼られているのは嬉しかった。

 

でも、流石に仕事もたくさん持ち帰っていて。合間を見てやろう。なんて思っていたけど、片付けと介護で全くできず。

デイサービスを週2回入れたのだけど、移動することで皮膚がずりむけてしまうため、行かせないほうが良いと言われてしまい、お風呂に入るのを楽しみにしていた父の楽しみも。私の持とうとした時間もなくなった。本当に24時間介護となった。

でも、お風呂だけにはなんとか入れたい。ケアマネさんに相談すると在宅入浴を手配してくれ、その週にはサービスに来ていただくことになった。

初めての在宅入浴は本当に感動した。全身を見ることもできるし、何より父が、そろそろ上がりましょうか。というと「もうちょっと」と言うくらい喜んでくれていた。

しかし、全身の皮膚がむけているため、父は痛いのと気持ちの良さと戦いながらの入浴だった。

入っている間にシーツを変え、パジャマの準備と洗濯。

そして上がると傷の処置すべて終わるには1時間30分以上はかかったけど、嬉しい気持ちが勝っていた。

日に日に1ヶ月の折り返しがくると、寂しくて仕方なくなってきた。

すっとこのままでもいいかな。

って思えるくらい楽しかった。

ただ食事をとる時間がないこともあり2週間で体重がゲッソリしてしまい友達にも心配されてしまった。私としてはとっても良かったけれど。

11月6日父迎えて帰宅

翌日ベッドの搬送や吸引器など準備か整い、親友が昼の休憩と時間休を取ってくれ一緒に施設に、父を迎えに。

スロープはこんな感じ。


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高さまでも調整できるしリクライニング同時もついたベッド。

ベッドは外が見えるように、父の作った池がいつでも見えるように設置した。


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ベッドは床ずれ予防のエアーマット


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生活の事をざっと聞き、父に3ヶ月ぶりに。

すでに私は嬉しくて涙。

「お父さんうちに帰るよ。」

一緒の車に乗ると父は、大きな目をギョロギョロさせてずっと外の景色を眺めてました。

「こわくない?」(うちの方言で辛くないか?と言う事)と聞くと「なんでもない」と応え車で15分くらいの移動。

自宅に戻りベッドに移動させるけど、プロの私でも大変なくらいの直立もできない。

これは、車椅子でお散歩なんて無理だな。と早々に認識。

夕食をさっと作り食べさせると親友がまた足りないもの買い物に連れ出してくれた。

あれもこれも足りない💦

大量に買い込んで帰宅。

 

この実家での生活では、とにかく親友二人が代わる代わる車を走らせてくれ買い物や用事を手伝ってくれた。

最後の最後の時までも、ずっとそばにいてくれた。

一生感謝してもしきれない。そしてこの恩は必ず一生かけても返していく。

 

 

父は家についても興奮しているのかメガネをかけてテレビをずっと見ていた。

そして、父の介護が始まった。

 

 

帰ってきた日の夕食


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足りなかった😭

まだエプロンの準備も間に合わず。

11月5日休暇開始

この日記を書いている今はもう、今年も終わろうとしている12月末。

私はこの夏に帰省をして久々に会った施設にいる父と面会した時に、「もしかしたら、年内まで持たないかも」というなんとなく痩せ具合と感覚が医療者の私は持ってしまった。

ここ数年悩んでいた父の介護をどこかのタイミングでしたい。という、思いがさらに強くなり退職をして介護するか、介護休暇を取得するか。

でも、後者は周りの人に多大なる迷惑をかけてしまう。そして取得する時期。

本当に悩んでケアマネージャーと何度もやり取りする中で、11月から介護休暇取得して新潟の実家で1ヶ月限定で過ごす事を決めた。

そのために10月は仕事の事、帰ってからの事。とにかく準備で毎日時間が足りないくらい日が過ぎていった。

5日から新潟に帰り、もう一つ私にはこの休暇中に、実家の清掃をどうしてもしたかった。それには自分の力では無理で、業者の手を借りてそれ相当のお金がかかることも承知していた。

でも、それは叶えたかった。

愛犬も一緒にしばらく東京の家を開けることに。

歩いて30秒もかからず海のそばで生まれ育った私の実家。


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晴れた日は本当に空気も澄んで気持ちいい。川の向こうは海。

11月とはいえ動いてばかりの私は半袖で家の中で過ごせるほど暖かかった。

お迎えも親友。

夜のお買い物も二人の親友が車で連れて行ってくれた。

父を迎える準備のために。