★☆★〜ボクとアタチのあしあと〜★☆★

大切な2チワワンと母のあしあとまったりと

昭和54年4月27日再入院

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昭和54年4月27日午後1時、母は地元市内の病院に再入院した。
母は周りの人に入院を勧められても、首を縦に振らずに春まできた。しかし、その母が入院を受け入れた
のには、痛みと襲ってくる吐き気に耐えられなかったことを物語っている。
母には家を空けることがよほどの決心であった。
学校が終わり市内のホールで開かれた某有名スターのコンサートに行った帰りに、私たち兄妹も母の
病室を訪れた。
ベッドに横たわる母は・・・。とても小さく、とてもやつれて見えた。
そして、母がそのまま、我が家に戻ることがないことなど私たち兄妹には想像もつかなかった。
その日と、その次の日の日誌には見舞い客の名前が記されているのみであった。
毎日母の妹たちが代わる代わる訪れてくれていた。末っ子である私は学校が終わると、母の元に一番に
向かっていた。

4月29日(日曜日)入院3日目
休日なため、お見舞いの方が次々と病室を訪れる。
昼12時。血便有り(下痢)!!
色が少々黒い感じがしたので見てもらったが、以上無しと言われた。が「下腹がやめる」と言っていた。

これがそのままの記録であるが、やめるというのは私の地方では「痛む」を意味する。

4月30日(月曜日)入院4日目
母が嫁いできてからの、友人たちが訪れる。母は前にも書いたが、漁業を営む家庭で育った。
そんな母が、嫁いだその年に父の両親が相次いで亡くなり長男の嫁である母は、慣れない畑、田んぼ
などの農作業を一人で背負うことになった。
当時母が、お米の品種を勉強したノートを目にしたことがある。もちろん亡くなってからだが、母の
生真面目さと本当に苦労をしたことが手に取るように伝わってきた。
その母の友人たちは、同じ立場の人が多く、共に助け合いながら少しずつ農業という仕事に慣れてきて
いたようだった。
しかし、私がまだ小学校低学年の頃、裏山ふもとの畑へ一緒に出かけた時、母は青い空を見上げて言った。
「農家にだけは嫁に行くな」と・・・。
(注*農家がいけないというわけではありません。偏見とは思わないでください。素人で一から学び苦労した母の心からの言葉だったと思うのでお許しください)
そしてその友人たちが最後の棺に「ねえさん、本当に苦労だったね。ご苦労様」と泣きながら声を掛けて
いたのも私は覚えてます。
写真はその畑があった場所です。今はもう人手に渡っていますけど・・・。