★☆★〜ボクとアタチのあしあと〜★☆★

大切な2チワワンと母のあしあとまったりと

手術のあと

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母は1ヶ月の入院の後自宅へと帰ってきた。自宅へ帰ってきてすぐに母は体調をみながら
ではあるが、再び農作業と家事に終われる毎日を送っていた。
母はもともとは漁師の家庭で生まれ育った。8人兄妹で次女の母は兄妹の中でも、一番大人しく
昔は食べ物に名前を書いてとってあったらしいが、それでも、兄妹に取られても何も言えない
言わない母の幼少時代だったと叔母たちに聞いたことがある。
我慢強い、物静かそれが母の印象だったと思う。
退院してきたその冬、母は機械編みや、和洋裁を得意としていたので、母が作る編み物の機械の
そばでその手伝いをしていた。「編み物はひとつ作ってもイヤになったら、また解いて違うものが
作れるからいいのよね」。母から教わった手編みは今では私の趣味となっている。
多分母が作った最後のニットは私と姉のショールで、私も姉もいまでもそれは実家に大切にしまってある。(写真は東京に持ってきている、もちろん着れませんが母の手編みのニットです)
冬が終わり春が近づくと、母の体調は目に見えるほど悪くなっていった。
お粥もノドを通らず、食べてもすぐに吐いてしまう毎日。それでも、母は朝一番に起きて広い古家を
掃除し畑へと出かけていっていた。
何度となく、突然に襲ってくる吐き気に「トモ!洗面器!」と大声で私を呼び、洗面器をもって
母の元へと駆けていった記憶が私の中にも残っている。その母のつらい姿は多分一生忘れることは
できない・・・。
寒い新潟にも桜が少しずつ咲き始めた4月。母は市内の病院に再入院することになった。
昭和54年4月27日午後1時入院。