★☆★〜ボクとアタチのあしあと〜★☆★

大切な2チワワンと母のあしあとまったりと

昭和53年夏

イメージ 1

イメージ 2

いつか、この日誌をどこかでまとめてみようと思っていた。自分だけの記録として
1冊の本に仕上げてあったけど、もう一度今年母の27回忌をおこなったその席で、もう一度
まとめて、母の面影を思い出してみたいと思いました。
そして、これは当時幼かった私はなにもできなかったのですが、母の兄妹、父の姉弟、親戚たちが
交代で毎日泊り込んで看病をしてくれた日誌そのままです。
私はこの日誌を開くたびに、その当時のことを思い出しやはり泣いてしまいます。
一歩一歩母の亡くなった年齢に近づいている、ここ数年では母との数少ない思い出を思い出しながら
時々読み返すこともありました。
そんな多くの人に助けられた闘病日誌を書いてくれた人への感謝の気持ちを込めて、ボチボチと
アップしていきます。

昭和53年夏、母は繰り返す嘔吐と胃痛を我慢しながら農作業と家事をおこなっていた。
ある夏の暑い日に母はとうとう体調を崩し、福井県のとある有名な病院を父と受診。
検査を受けた。その病院はその後父から聞いた話だが「出血をほとんど出さずに手術をする外科医がいる」と巷で有名となり親戚のおばさんもそこで手術を受け、評判が事実のものであると母もその病院を
訪れることになった。
検査結果が出る前に父には「早くの入院」が説明されていた。その先生が話すことは「明日には手術をしますよ。今日は帰れませんよ」と。実際の母の胃の検査とは別人の結果を見せ、母に説明した。
それくらい進行した癌で既に手遅れの状態で1年は持つかどうか・・・。という父への説明であった
手術当日、私たちも学校を休み病院へ駆けつけたが、入院や手術がどういうものかというより、家族で旅行している気分で私は楽しみにしていた。
母は手術のあと、父に抱き上げられ病室に戻ったそうだ。
開いたお腹の中の母の胃は、とても手を付けられる状態ではなく、そのままの状態で閉腹した。
母には、手術は成功したと父から説明され、母もかすかに微笑んだのを覚えている。
その夜は母の病室に家族で泊まった。
1ヶ月の入院のあと、退院したが、その病院は料金がとても安かった。その代わり、病院に石を置いていく習慣があった。父は感謝の気持ちを込めて地元の代表石でもある、ヒスイを先生にプレゼントして母は退院した。

心無いコメントは削除させていただくことをお許しください